院長紹介

ホームケアクリニックえん
院長 千葉恭一

●幼少から少年期

私は、仙台伊達藩のあった宮城県の田舎で代々続く千葉家の次男坊として生まれました。生まれてすぐに岩手県江刺市藤里にある母の実家(専業農家)に預けられ、「ばあちゃんっこ」として育ちました。周囲には山と田んぼしかなく、野山とお寺さんが遊び場でした。父は教師・母は農業をしており、「千葉家の男として!」と父には厳しく育てられました。 中学生の時、地元の社会福祉協議会を通じてボランティア活動に参加しました。初めは面白そうだと思って気軽に行ったのですが、さまざまな体験を通して、関わった高齢の方や障害を持った方々の笑顔に接し、小さな「良かった!」を感じてもらえることがとても嬉しくなりました。ボランティアで人を援助しているつもりが、むしろ私自身が助けられていたことに気付きました。 そういった活動をしているうちに、私は将来誰かの役に立つ人になりたいと思い始め、やがて医師という職業に興味を持ち始めました。

●思春期の頃の私

高校は地元の高校に進みましたが、実は大学に進学する人は、片手で数えられるほどという教育環境でした。もちろん学習塾もなく、当時、私が医学部を志望したことは、地元ではかなり特異なことでした。浪人して仙台の予備校に通った時には、おおいにカルチャ―ショックを受けました。家は私立の医学部にはとても行かせてもらえる状況ではなく、選択肢は国立の医学部以外ないのですが、学力は程遠い状態でした。一浪しか許してもらえなかったため猛勉強をしました。そのときに私を支えたのは、将来は故郷で、権力ある一部の人たちが優遇される社会ではなく、少しでも、端っこで一生懸命辛抱して生きている人たちの役に立ち、必要としてもらえるような医者になりたいという志でした。

●学生のころ

「北にはロマンがある」と親を説得し、なんとか旭川医科大学に合格しました。在学中は、勉強よりクラブ活動(柔道部・ボディービル部・合唱部)やアルバイト・ボランティア・学生活動などを行い、地域の方々と触れ合い、さまざまな人々とのつながりを感じ、また「より良い社会にしたい。社会を変えてやる!」などと夜通し飲み明かし語り合った学生時代でした。

●医師として

大学卒業後は、地域医療・僻地医療に関わりたい、患者さん全体を診たいとプライマリーケアの道を歩み始めました。 当時は、医師の使命は「病気を治すこと、救命に全力を注ぐこと」が一番と考えていました。しかし、研修医の時に受け持った心肺停止状態の患者さんから、救命後に「なぜ、俺を助けた!」と言われたことに強い衝撃を受けました。 命を救ったのになぜ叱られる?命よりも大切なものがあるのだろうか?! 人の幸せってなんだろう?少しでも長く生きられることではないのか?・・・と人生について人間について、深く考えるきっかけとなり、その人の人生・ことばに隠された思いなどに耳を傾けるようになりました。

●在宅医療の道へ

一時は「専門分野を追究したい」と大病院で研鑽を積んでいました。専門に特化した仕事をしているうちに、私のやりたいことはこれだったのだろうか?と自問自答する日が多くなりました。 カルテやレントゲン画像を診ても、患者様の表情や人となりは診ることもなく、数をこなす医療ばかりを毎日がむしゃらに行っていました。そして、医師を目指していた頃の自分を振り返り、「もっともっと患者さんやご家族様の身近にいたい、気持ちを大事にしたい」という思いが強くなってきたのです。治せない病気や障害を抱えながら生活している患者さん家族さんの全体をみていきたい。 いつか誰しもに訪れる『亡くなる』というその最期の瞬間であっても、どのようにしたら穏やかで、幸せを感じられるのか。私はその最期のときまで関わり続け、苦しむ人と共に歩みたいと思うようになりました。そしてめぐみ在宅クリニックの小澤竹俊先生(心の師匠と呼んでおります)と出会い、語り、そして決心したのです。とことんやってやろうと。42歳、本気で在宅医療の道を進む決心をしました。

●東日本大震災について

しかし、自分の理想と理事長・院長の方針との狭間で思ったように出来ずにストレスを感じていました。そのとき、平成23年3月11日東日本大震災が発生しました。一瞬で大勢の命が奪われました。医師としても個人としても無力な存在に気がつきました。自分の価値観がすべて変わった瞬間でした。いまでもお世話になっている復元納棺師の笹原留似子さん、西和賀・碧祥寺の太田宣承和尚、後に当院の看護師長となる緩和ケア認定看護師の高橋美保さんなど、数多くの地域の皆さんとボランティア活動を通じ、「とりあえず、目の前の患者さんに、自分が今出来る精一杯のことをはじめよう。そばにいるみなさんの笑顔の為に、それがご縁で地域全体へ広がっていければよい」と思いました。どこからか「それでいいんだよ」と声が聞こえた気がしました。その後、飛騨高山千光寺の大下大円和尚よりクリニックの名前となる「えん」を命名いただき、ホームケアクリニックえんがスタートしました。

●クリニック開院そしてこれから

クリニックを開院した時は、もちろん患者ゼロからのスタートでした。職員も看護師と私の二人、すぐに事務員が来てくれて、当面は3人体制での船出でした。開業当時は、私の家族にもそして、共に歩む同志の看護師・事務員さんにも、沢山の犠牲と努力と辛抱をしてもらうことになりました。心配していた患者さんですが、開業二日目に以前の医院で診させて頂いていた患者さんのご家族さんからの依頼がありました。自分たちを選んでくれたことに感謝しました。その後、少しずつ患者様が増えて行きました。開業から3年が経ち、職員も9名に増えました。クリニックに遊びに来てくれる地域の多職種の方々・患者会・行政の方々も増えました。「実るほど頭をたれる稲穂かな」祖母から「いつまでもこの気持ちを忘れるな」ともらったことばです。一番大変な時に支えてくれたたくさんの人たちの感謝を忘れずにいたい。いただいたご恩を恩返しするだけではなく、恩送りをして行きたいと思っています。 そして、このご恩が絆となり、ホームケアクリニックえんに関わる皆さんだけではなく、地域の皆さんが、どんな病気や障害があっても、それぞれの人が望んだ場所で最期の時まで穏やかに過ごせるようにしていきたい。患者さんと支える人々が笑顔で過ごせることを目指し、もちろん職員や地域住民も笑顔で過ごせるように、これからも医療・介護を通じた地域づくりを、進めていきたいと考えています。